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「祇園祭」《綾傘鉾》の起源・由緒20220712

「祇園祭」《綾傘鉾》の起源・由緒20220712


「綾傘鉾(あやかさほこ)」は、山鉾の非常に古い形態を残している傘鉾の一つで、大きな傘と棒振り囃子の行列として巡行していた。この綾傘鉾も、江戸時代の天保5年(1834)、一時小型の鉾に改造されるが、元治元年の大火で、その大部分を焼失することになる。その後、明治12年から17年まで原型の徒歩ばやしの形で巡行したことがある。
棒振り囃子は、赤熊をかぶり、棒をもった者が、鉦、太鼓、笛に合わせて踊るもので、壬生村の人々により奉仕されていた。
この綾傘鉾も町内の人々の努力が実り、昭和54年から巡行することになった。なお、傘につける垂りは人間国宝の染織家森口華弘の友禅「四季の花」と平成4年に町在有志の寄贈になる綴錦「飛天の図」がある。

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この項 <完>





# by mo-taku3 | 2022-07-12 07:20 | (祭特集)京都のお祭り | Comments(0)

「祇園祭」《船鉾》の起源・由緒20220711

「祇園祭」《船鉾》の起源・由緒20220711


「船鉾(ふねほこ)」は、神功皇后の新羅遠征をめぐる説話によって鉾全体を船の型にし、舳先には金色の鷁、艫には黒漆塗螺鈿の飛龍文様の舵をつけ、船端には朱漆塗の高欄をめぐらし、唐破風入母屋造りの屋根からは紅白の長旒・吹流しをひるがえす。鉾の上には皇后と陪従する磯良・住吉・鹿島の三神像を安置する。主神神功皇后は神面をつけ緋縅の軍装、その後に鹿島明神、舳先には、海神安曇磯良が龍宮の満干珠を住吉明神に捧げている。皇后の神面(文安年間作、1444~1448)は古来安産に奇瑞があるといわれ、宮中でも尊敬され、明治天皇の御降誕の時には宮中へ参内している。皇后の神像は岩田帯をたくさん巻いて巡行するが、それを祭りの後、妊婦に授与され安産のお守りとされている。また、神功皇后衣裳の水干「金地菊花文様唐織」と大口袴「白地御簾文様金襴」は平成22年(2010)に新調された。鷁は宝暦年間(1751~64)長谷川若狭の作で、船尾の舵は寛政4年(1792)に造られた。水引の雲龍図肉入刺繍の下絵は西村楠亭(1775~1834)の筆、鹿島明神の持つ長刀は、井上和泉守真海(寛文年間1661~1672)作の逸品である。また平成21年(2009)に高欄下水引が新調された。
船鉾は後祭の「大船鉾(おおふねほこ)」と対になっており、船鉾は遠征、大船鉾は帰還の役割を担っている。

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この項 <完>





# by mo-taku3 | 2022-07-11 22:05 | (祭特集)京都のお祭り | Comments(0)

「祇園祭」《放下鉾》の起源・由緒20220711

「祇園祭」《放下鉾》の起源・由緒20220711



「放下鉾(ほうかほこ)」の名は真木のなかほどの「天王座」に放下僧の像を祀るのに由来する。
鉾頭は日・月・星三光が下界を照らす形を示し、その型が洲浜に似ているので別名「すはま鉾」とも呼ばれる。
かつては長刀鉾と同様「生稚児」であったが昭和4年以降稚児人形にかえられている。稚児人形は久邇宮多嘉王殿下より三光丸と命名せられ巡行の折には稚児と同様、鉾の上で稚児舞ができるように作られている。
この鉾は明治の中期に胴組、天井、柱、屋根などが大改装され、金具類も順次整備された。
破風正面の三羽の丹頂鶴(後面二羽)は幸野楳嶺(1844~95)の下絵を高浮彫し大正6年に完成したものである。
下水引は与謝蕪村(1716~83)下絵の琴棋書画図であったが平成6年から栂尾高山寺の国宝華厳宗祖師絵伝を下絵にした綴織になっている。三番水引の青海波におしどり図綴織は駒井源琦の下絵によるものだが今はその復元品を用いている。
前懸・胴懸には花文様のインドやペルシャの絨毯がある。見送は文政11年(1828)京都西陣で作られたものである。旧胴懸として16世紀製の描絵玉取獅子、牡丹、鶴文様の朝鮮毛綴が保存されている。
平成22年(2010)には天井幕「四季草花図」(原画・柴田是真)が新調された。

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この項 <完>





# by mo-taku3 | 2022-07-11 21:50 | (祭特集)京都のお祭り | Comments(0)

「祇園祭」《菊水鉾》の起源・由緒20220711

「祇園祭」《菊水鉾》の起源・由緒20220711



「菊水鉾(きくすいほこ)」は、町内に古くからあった井戸、菊水井にちなんで名付けられ、鉾頭には金色の透かし彫の菊花をつけている。真木のなかほどの「天王座」には彭祖像を祀る。元治元年(1864)の兵火で焼失したが昭和27年、88年ぶりに松本元治氏の熱意が実り再興され、28年6月完工祭が行われた。稚児人形は菊の露を飲んで長寿を保ったという枕慈童で能装束の舞姿である。屋根は唐破風造りで、彫師海老名峰彰作の鳳凰の懸魚を飾り、軒下に翠簾を掲げるところは特に他の鉾と異なっている。昭和29年には皆川月華作唐獅子図の胴懸、飛鶴図の前懸が作られ、30年には月華作孔雀図の豪華な見送が完成。その後山鹿清華作の下水引、皆川泰蔵作の二番水引が加えられ、38年には三輪晁勢筆天井絵が、近年、小林尚珉氏によって錺金具が製作された。また、最近晁勢筆の天水引、月華作の下水引、岩澤重夫筆の深山菊水図綴織見送があらたに完成した。このようにして、菊水鉾は年々装飾が充実し、「昭和の鉾」としての偉容を示してきている。

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この項 <完>





# by mo-taku3 | 2022-07-11 21:47 | (祭特集)京都のお祭り | Comments(0)

「祇園祭」《月鉾》の起源・由緒20220711

「祇園祭」《月鉾》の起源・由緒20220711



鉾頭に新月型(みかづき)をつけているので、この名で呼ばれる。
真木のなかほどの「天王座」には月読尊を祀る。古い鉾頭と天王の持つ櫂には「元亀4年(1573)6月吉日大錺屋勘右衛門」の刻銘がある。また正徳4年(1714)の鉾頭もあるが昭和56年から田辺勇蔵氏寄進の18金製の鉾頭にかえている。屋根裏の金地彩色草花図は天明4年(1784)円山応挙(1733~95)の筆。天井の金地著彩源氏五十四帖扇面散図は天保6年(1835)に町内の住人岩城九右衛門の筆。破風蟇股の彫刻は左甚五郎の作と伝えられる立派なものである。軒桁貝尽しの錺金具は松村景文(1779~1843)の下絵、四本柱の錺金具、破風飾の金具などはいずれも華麗なもので山鉾のなかでも最高のものである。天水引の霊獣図刺繍は天保6年(1835)円山応震の下絵である。前懸、後懸は華麗なインド絨毯、胴懸はインドやトルコの絨毯を用いており、北面の「中東蓮花葉文様」は平成22年(2010)に、南面の「幾何菱文様」は平成23年(2011)に復元新調された。近年下水引は皆川月華作の花鳥図に、見送も同作の湖畔黎明図にかえている。また、平成12年(2000)には前懸のインド絨毯も復元された。

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この項 <完>





# by mo-taku3 | 2022-07-11 21:28 | (祭特集)京都のお祭り | Comments(0)