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「祇園祭」を振り返る(その4)老舗の宝物等20220604

「祇園祭」を振り返る(その4)老舗の宝物等20220604



“動く美術館”と呼ばれる山鉾巡行に対して、“静の美術館”と呼ばれる屏風祭は主に祇園町でのお披露目でしたが、協力・便乗という形での展示も増えてきています。この期間でしか見ることのできない、老舗の宝物を見ることもできます。先祖から代々、大切に受け継がれてきた宝物も展示されています。その美しさや素晴らしさには、きっと満足されることでしょう。
この『屏風祭』は、宵山期間中におこなわれ、山鉾見物とともに見逃せない催しのひとつとなっています。山鉾町にある旧家・老舗が、表の格子戸を外して、秘蔵している屏風や美術品などを飾 り、通りから鑑賞してもらえるようになっています。床の間に生けられているのは、祇園祭になくてはならない祭花・檜扇(ヒオウギ)。扇を開いたような葉の 姿が、厄をはらう扇に似ていることから、厄を払いのける願いを込めて各家で飾られるようになりました。
また、宵山の際、各山鉾町では山鉾を飾りつける懸装品(周りを覆う染織物、ご神体の人形など)や、地域で所蔵している美術品などを「お会所」(各山鉾の事務所のようなところです)に展示・公開します。
このように、老舗に伝わる宝物や山鉾の懸装品などは、かなりの見学個所となります。一度にすべて見なくて手も、来年・再来年とお越しいただけると幸いです。


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この項 <完>





# by mo-taku3 | 2022-06-04 12:56 | (祭特集)京都のお祭り | Comments(0)

「祇園祭」を振り返る(その3)花笠巡行20220603

「祇園祭」を振り返る(その3)花笠巡20220603



祇園祭の「花傘巡行」について少し説明します。この巡行は、比較的新しいものです。
さて、祇園祭の山鉾巡行は、
・前祭(さきのまつり) は、宵山:7月14日〜16日 巡行:7月17日。
・後祭(あとのまつり) は、宵山:7月21日〜23日 巡行:7月24日。
となっていますが。この山鉾巡行との関係が大いにあります。
それまで現在の様に、“後の祭(あとのまつり)”と17日の“前の祭(さきのまつり)”に分かれていた巡行を、一つにまとめることになり、昭和41年に合併されたことにともない、後祭の行事がなくなったために興されたのが、花傘巡行(7月24日)のはじまりなのです。
しかしその後、後祭の復活がありました。と言って、ここまで育った「花笠巡行」をなくすのは惜しいということで、今でも延々と続いているわけです。
即ち、平成26年(2014年)からは、後祭山鉾巡行とほぼ同時におこなわれることになりました。もともと、祇園祭がはじまった頃の山鉾は、花傘の形態であったと伝えられていて、この巡行は、祭の原初的なかたちをあらわしているのかもしれません。
この巡行列は、花傘を中心とした行列が、八坂神社から市役所、四条御旅所などを巡って、八坂神社へと帰ってくるものです。先頭は、元気なかけ声を響かせた子ども神輿。そして、花傘をかぶった女性や武者行列、鷺踊(さぎおどり)、獅子舞、芸妓さん・舞妓さんをのせた曳き車などが続きます。行列に参加するのも、総勢1000人近くと大規模で、実に華やかで、賑やかな行列として知られています。
そして、八坂神社へと行列が戻ってくると、一行は、本殿に帰還を報告。その後、鷺踊、獅子舞、六斉念仏、祇園囃子、舞妓さんたちによる踊りなど、多彩な芸能が神前に奉納されます。こういったことからも、山鉾巡行の厳かな雰囲気とは少し異なり、伝統芸能的な色合いが濃い行事だといえるかもしれません。
花傘巡行には現在のような山鉾巡行の形になる以前の祇園会の風流が多数取り入れられているといいます。繰り返しますが、傘鉾10基余、子供神輿や獅子舞、祇園太鼓、馬長(うまおさ)稚児、鷺舞・万灯踊り、久世六斎、祇園囃子、そして、京都の花街の舞踊、京都織物卸商業組合など約1,000人が練り歩く華やかな大行列になります。
京都織物卸商業組合は、織商鉾と共に、織商組合員加盟商社社員の方々、ミスきもの・準ミスきものの方々およそ30名が参列されます。織商組合員の男性は供奉、女性は花傘娘として参加です。
織商鉾には、ミスきもの・準ミスきものである京都きものの女王の方が、古代~平安の装束を身に纏い、搭乗されます。
尚、京都プリンセスに選出された方が、花傘娘 (八坂神社宮司様が命名)の称号が与えられ、祇園祭の還幸祭(花傘巡行)に花傘娘として参列することができます。
花街である宮川町/祇園甲部/先斗町/祇園東から毎年、2花街が参加されます。
巡行後、12:30頃から八坂神社の舞殿で、舞踊奉納が行われます。

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この項 <完>





# by mo-taku3 | 2022-06-03 17:55 | (祭特集)京都のお祭り | Comments(0)

「祇園祭」を振り返る(その2)神幸祭・還幸祭20220602

「祇園祭」を振り返る(その2)神幸祭・還幸祭20220602


京都の夏を彩る祇園祭といえば、近年は前祭と後祭の2回に分け開催されるようになった「山鉾巡行」が有名ですが、実は祭りの最も重要な行事とされているのがあります。それは、神様を載せた神輿が市内を回る「神輿祭」です。神輿が境内から御旅所へ向かうのが「神幸祭」、御旅所から境内へ戻るのが「還幸祭」といいます。
粋な匂いがする京都の町ですが、この「神輿祭」は、1基200~300人の担ぎ手で行う、勇壮さがあります。
7月のひと月かけて多くの神事が行われる祇園祭ですが、実は最も重要な行事なのが神輿にのった神様が市中を清めて回る「神輿渡御」です。
神楽は三基あり、のる神様は、八坂神社の主祭神である素戔嗚尊(スサノヲノミコト)と、櫛稲田姫命(クシナダヒメノミコト)、八柱御子神(ヤハシラノミコガミ)。
毎年7月10日の夜には三基の神輿のうち、素戔嗚尊の御霊をのせた中御座神輿(ナカゴザミコシ)が四条大橋まで行き、鴨川の水を含ませた榊の枝の水しぶきで清められる「神輿洗い」が行われます。
その後三基の神輿は7月17日の山鉾巡行の後の夕刻まで、写真のように南楼門前の舞殿に安置されます。

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神輿のうちで最も重い西御座神輿(ニシゴザミコシ、写真右側)は重さ約2トンもあり、300人ほどの氏子が交代で担ぎます。西御座神輿には素戔嗚尊の子である八柱の神々がのせられ、屋根の形は八角形です。素戔嗚尊の妻である櫛稲田姫命がのる東御座神輿(ヒガシゴザミコシ)の屋根は四角で屋根には葱花(ソウカ、擬宝珠の異名)の飾りがついています。西御座神輿と中御座神輿の屋根飾りはともに鳳凰です。
神輿渡御が行われる「神幸祭」での定番見学場所としてはまず八坂神社境内があげられます。「神幸祭」とは毎年7月17日の午前中の行事である山鉾巡行(前祭)が行われた日の夕刻に行われる行事で、まずは神輿が舞殿から降ろされ屋根に青稲が飾られた後、南門(正門)から境内を出て西楼門石段下へ向かいます。
ルート地図を載せていますのでご覧ください。
「神幸祭」と「還幸祭」、さらに3つの神輿でそれぞれにルートは違いますが、7月17日の「神幸祭」でのオススメ鑑賞場所の1つが辰巳大明神のそば、祇園白川周辺かな?と思います。
この祇園白川周辺にやってくるのは東御座神輿です。
三基の神輿はそれぞれのコースを回り、「神幸祭」の日の夜、だいたい20時から21時頃には四条寺町にある八坂神社・御旅所に到着し鎮座します。そして、毎年7月17日の「神幸祭」から7月24日の「還幸祭」までの間は「御旅所」に祭壇が設けられ、こちらに留まり祀られます。

また、毎年7月24日夕刻より行われる「還幸祭」は御旅所に祀られた神輿のうち、中御座神輿が17時頃出発するのを皮切りに始まります。
ここでは「還幸祭」で神輿を先導する駒形稚児の行列の他、四条大宮の駐車場では八坂神社の分社である京丹波町の尾長野八坂神社に伝わる太鼓の奉納を見ることもできます。その後は四条大宮交差点へは東御座と中御座の二基の神輿がやってきます。
貞観11年(869)都に疫病が流行した時、神泉苑に66本の矛を立て御霊会が行われたのが祇園祭の起こりです。八坂神社の境外末社である又旅社(御供社)は、禁苑「神泉苑」の南端に当たっており、「還幸祭」の神輿渡御でも三基の神輿のルートに当たるほか、中御座神輿は又旅社前に奉安され神饌を供え奉饌祭が執り行われます。現在、又旅社の周辺は、今は三条会商店街となっています。










この項 <完>





# by mo-taku3 | 2022-06-02 16:07 | (祭特集)京都のお祭り | Comments(0)

祇園祭復活につき「祇園祭」を振り返る(その1)20220601

祇園祭復活につき「祇園祭」を振り返る(その1)20220601



先頃、京都祇園祭が三年ぶりで復活することになり、関係者の方々は一様に喜んでいる様子です。また市民の間でも「今年はやることになったみたいよ」と結構話に出てくることが多いようです。そこで忘れかけたかもしれない祇園祭について、何回かに分けてご紹介していきたいと思います。
さて、京都祇園祭(ぎおんまつり)とは、京都市東山区にある八坂神社(祇園社)の祭礼で、明治までは祇園御霊会(ぎおんごりょうえ、御霊会)と呼ばれていました。このお祭りは、貞観年間(9世紀)から続く、(鴨川の納涼床とともに)京都の夏の風物詩となっています。

祇園祭行事は八坂神社が主催するものと、山鉾町が主催するものがあります
祇園祭の中の山鉾行事が重要無形民俗文化財に指定されていますが、山鉾以外にも色々な行事が、7月1日から31日迄行われます。
★山鉾町が主催する諸行事の中でもハイライトとなる山鉾行事は、前祭(さきのまつり)と後祭(あとのまつり)の2つに分かれます。
山鉾行事は「宵山」(よいやま:前夜祭)前祭:7月14日 - 16日・後祭:7月21日 - 23日となりますが、前祭は出店が出て派手で人出が最高潮に達しますが、後祭には出店は出ません。これは数年前に、前・後に分かれた際の取り決めとなってます。後祭は山鉾の披露と老舗の方物の披露などをやっています。
宵山には旧家や老舗にて伝来の屏風などの宝物の披露も行われるため、屏風祭の異名があるようです。
「山鉾巡行」は、前祭:7月17日・後祭:7月24日となります。
前祭は「長刀鉾」を先頭に、20数基が、また後祭は数年前にふっかつした「大船鉾」を先頭に10数基がすすみ、大型山鉾の「辻回し」が爽快です。
★」八坂神社主催の神事は 「神輿渡御」(神幸:7月17日・還幸:7月24日)や「神輿洗」(7月10日・7月28日)などが著名で、「花傘連合会」が主催する花傘巡行(7月24日)も八坂神社側の行事とされています。

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※祇園祭の起源は、疫病の流行により朝廷は863年(貞観5年)、神泉苑(平安京の禁裏:現在も二条城縮小はされましたが、旧地の残っています)で初の御霊会(ごりょうえ)を行った。御霊会は疫神や死者の怨霊などを鎮めなだ科学の進んでいなかった時代b進んでいなかった時代には、疫病も恨みを現世に残したまま亡くなった人々の怨霊の祟りであると考えられていました。しかし、その後も疫病の流行が続いたために牛頭天王を祀り、御霊会を行って無病息災を祈念したのが、起こりとなっています。
ちなみに、864年(貞観6年)から富士山の大噴火が起こって溶岩が大規模に流出して山麓に達し、869年(貞観11年)には陸奥で貞観地震が起こり、津波によって多数の犠牲者が出るなど、全国的に地殻変動が続き、社会不安が深刻化する中、全国の国の数を表す66本の矛を卜部日良麿が立て、その矛に諸国の悪霊を移し宿らせることで諸国の穢れを祓い、神輿3基を送り薬師如来を本地とする牛頭天王を祀り御霊会を執り行った。この869年(貞観11年)の御霊会が祇園祭の起源とされており、途中色々あったようですが、2019年(令和元年)には祭の1150周年を祝うほど、長い歴史を持っています。










この項 <完>




# by mo-taku3 | 2022-06-01 16:11 | (祭特集)京都のお祭り | Comments(0)

京都のプチ史跡巡り20220530

京都のプチ史跡巡り20220530



今まで散策で目にした史跡の一部を載せてみました。
調べてみて、なかなか深くて重いものでした。以下に6項目紹介します。
①廣野了頓邸址(ひろのりょうとんていあと)
かすれかかった駒札がありました。内容を読んで見ると、「廣野了頓」邸宅の跡についての説明でした。この廣野了頓は、足利家代々の従臣であり将軍義晴、義輝の時代にこの地を領有し、その後安土桃山時代になって、末裔である廣野了頓が剃髪してこの地に茶亭を構え、茶道を広めたと伝わっています。
当時、豊臣秀吉が、京へ入洛した折りに了頓邸を訪れ、茶を点じた了頓は、その縁で二百八十石の知行をあてがわれたことや、徳川家康が了頓邸を訪れて遊び、山科言経・古田織部らも同席したとあり、徳川幕府からも知行四百石を受け、厚遇されて明治まで続いたようです。
廣野了頓跡は、衣棚通りにあり、六角通に面して表門がありました。(了頓の意思により)表門から裏門までの一般の通行ができ、表門は将軍御成門と称していたもようです。また、この付近には清水が湧き、井戸も多く、民家の裏には了頓井と称する井戸があったといいます。
了頓図子(小路)町という名は、実際にここに住した廣野了頓に由来して今に伝えられたものであり、図子とは辻子とも書き、いわば大路と大路の間を結ぶ小路のことをいいます。

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②二条富小路内裏址
この地は,鎌倉中期に西園寺実氏(1194~1269)の邸宅の一つ冷泉富小路殿があり、「*閑院内裏」焼失(1259)後、後深草天皇(1243~1304)の皇居となり、その後も上皇・天皇の御所として頻繁に使われたところです。徳治元(1306)年、火災にあい、その後再建されないままでしたが、正和元(1312)年、鎌倉幕府から造内裏費用が献上されて、平安宮内裏の殿舎構成に准じた里内裏が建設されています。これが二条富小路内裏で、のち20年にわたり花園(1297~1348)・後醍醐(1288~1339)・光厳(1313~64)天皇の内裏となっています。しかし建武3(1336)年、建武新政崩壊による戦乱で焼失してます。この石標はその内裏跡を示しています。
所在地)中京区富小路通夷川下る西側(御所南小学校第二運動場前)
*閑院内裏は,平安京二条にあった邸宅で,藤原冬嗣(795~826)によって創建された。 庭内に泉が湧き,その閑雅な風情から「閑院」と名付けたと伝わる。 平安時代前半は,藤原氏の邸宅として用いられ,後半は白河上皇・堀河天皇・高倉天皇・土御門天皇等の里内裏であったようです。

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③大炊御門万里小路殿址 : 富小路通夷川上る西側に「大炊御門万里小路殿址(おおいの みかど までのこうじどのあと)」の石標が立っています。
ここは、平安時代後期、但馬守・源高房(?-1077)の邸宅「大炊御門万里小路殿」は、平安京左京二条四坊十一町にあり、この石標の位置は敷地の南東よりにあたります。源高房の後は、中納言・源能俊(1071-1137)が引き継いでいます。鎌倉時代末期、里内裏として度々利用されています。
第71代・後三条天皇は、この地に行幸して、亡くなっておりますが、この天皇は、荘園整理令を出し、摂関家に打撃を与えたことで有名です。

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④赤松小三郎 : 下京区東洞院通鍵屋町下る西側にこの石碑が立っています。
赤松小三郎(1831~67)は信州上田藩の藩士です。江戸で蘭学や西洋砲術を学び、勝海舟(1823~99)とともに長崎の海軍伝習所に赴任しています。その後、京都で私塾「宇宙堂」を開いています。薩摩藩から招請を受けたましたが、公武合体論を唱えたため、慶応3(1867)年9月3日、帰宅の途中、薩摩藩士に暗殺されたといいます。
この石標は,赤松小三郎が暗殺された地を示すものです。

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⑤松永貞徳花咲邸址と花咲稲荷社 : 下京区間之町通松原上る」の狭い路地に立っています。
横には花咲稲荷社があり、俳諧の祖、松永貞徳ゆかりの神社です。
この地には、江戸時代の初め、俳諧の祖とされる松永貞徳が60代で移り住んだと伝わり、神社の前には「松永貞徳花咲亭址」の石碑も立っています。その邸宅の鎮守として創建されたのが、花咲稲荷社です。
松永貞徳は京都出身の人物で、和歌を細川幽斎に、連歌を里村紹巴に学び、若き日は豊臣秀吉に仕え、晩年は俳諧の指導者となり、その俳諧を貞門俳諧と称します。友人先輩としては藤原惺窩(せいか)、林羅山(らざん)、木下長嘯子(ちょうしょうし)らがいました。
それまで連歌の一部とされていた「俳諧」が、独立した一分野として確立したのは貞徳の頃で、俳諧には、元々滑稽や戯れという意味がありますが、貞徳は和歌や連歌の表現の中でも滑稽さを重視して、さらには連歌ではあまり使われなかった日常の言葉や漢語(俳言:はいごん)を用い、堅苦しくなく、より気軽で親しみやすい「俳諧」を作り出しました。
貞徳の弟子には、北村季吟がおり、さらにその弟子には松尾芭蕉が出てきます。俳諧から俳句へ、さらには川柳や狂歌など、天下太平の江戸時代には歌一つとっても、様々に洗練・派生していきました。何気ない町中にも、こうして歴史や文化をしのべる場所があるのは、歴史が詰まった京都らしくて面白いですね。なお、松永貞徳は、「*雪月花三名園」の作庭者としても知られています。
「*雪月花三名園」:江戸時代に歌人・連歌師・俳諧の祖として讃えられた松永貞徳(1571〜1653)により作庭されたと伝わる「雪月花の三庭苑」は、江戸時代、寺町二条の妙満寺(現在は左京区岩倉)の「雪の庭」、清水寺の「月の庭」、そして北野天満宮の「花の庭」それぞれが成就院(成就坊)という塔頭に造られた庭として、その名を馳せました。

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⑥手島堵庵(石門心学:五楽舎)
富小路通六角上ル西側に、「手島堵庵五楽舎址(てじま-とあん-ごらくしゃあと)」の石標が立てられています。
手島堵庵とは、江戸時代中期の「*石門心学」者であり、この地の講舎「五楽舎(ごらくしゃ)」で門弟の育成を行った。
江戸時代中期の石門心学者・手島堵庵(てしま/てじま-とあん、1718-1786)は、京都に生まれ、18歳で石門心学の祖・石田梅岩の門に入る。20歳で後継者になり、「心学二世」と呼ばれる。
「*石門心学」は、創始者・石田梅岩(うめだ-ばいがん、1685-1744)に始まるといいます。陽明学を心学ということから、梅岩門流の「石門」を入れ、「石門心学」と呼ばれた。
神道・儒教・仏教に基づく道徳を基本にしており、人の道義を説いたものです。江戸時代後期に大流行し、全国に広まったといいます。
心学講舎は、社中と呼ばれ、都講(教師)が町民に教化したといい、講話は定例的に行われていました。江戸時代、1850年の大飢饉では救援活動を行っています。


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この項 <完>





# by mo-taku3 | 2022-05-30 16:40 | (歴史感)京都 | Comments(0)