京都のプチ史跡巡り20220530
今まで散策で目にした史跡の一部を載せてみました。
調べてみて、なかなか深くて重いものでした。以下に6項目紹介します。
①廣野了頓邸址(ひろのりょうとんていあと)
かすれかかった駒札がありました。内容を読んで見ると、「廣野了頓」邸宅の跡についての説明でした。この廣野了頓は、足利家代々の従臣であり将軍義晴、義輝の時代にこの地を領有し、その後安土桃山時代になって、末裔である廣野了頓が剃髪してこの地に茶亭を構え、茶道を広めたと伝わっています。
当時、豊臣秀吉が、京へ入洛した折りに了頓邸を訪れ、茶を点じた了頓は、その縁で二百八十石の知行をあてがわれたことや、徳川家康が了頓邸を訪れて遊び、山科言経・古田織部らも同席したとあり、徳川幕府からも知行四百石を受け、厚遇されて明治まで続いたようです。
廣野了頓跡は、衣棚通りにあり、六角通に面して表門がありました。(了頓の意思により)表門から裏門までの一般の通行ができ、表門は将軍御成門と称していたもようです。また、この付近には清水が湧き、井戸も多く、民家の裏には了頓井と称する井戸があったといいます。
了頓図子(小路)町という名は、実際にここに住した廣野了頓に由来して今に伝えられたものであり、図子とは辻子とも書き、いわば大路と大路の間を結ぶ小路のことをいいます。
②二条富小路内裏址
この地は,鎌倉中期に西園寺実氏(1194~1269)の邸宅の一つ冷泉富小路殿があり、「*閑院内裏」焼失(1259)後、後深草天皇(1243~1304)の皇居となり、その後も上皇・天皇の御所として頻繁に使われたところです。徳治元(1306)年、火災にあい、その後再建されないままでしたが、正和元(1312)年、鎌倉幕府から造内裏費用が献上されて、平安宮内裏の殿舎構成に准じた里内裏が建設されています。これが二条富小路内裏で、のち20年にわたり花園(1297~1348)・後醍醐(1288~1339)・光厳(1313~64)天皇の内裏となっています。しかし建武3(1336)年、建武新政崩壊による戦乱で焼失してます。この石標はその内裏跡を示しています。
所在地)中京区富小路通夷川下る西側(御所南小学校第二運動場前)
*閑院内裏は,平安京二条にあった邸宅で,藤原冬嗣(795~826)によって創建された。 庭内に泉が湧き,その閑雅な風情から「閑院」と名付けたと伝わる。 平安時代前半は,藤原氏の邸宅として用いられ,後半は白河上皇・堀河天皇・高倉天皇・土御門天皇等の里内裏であったようです。
③大炊御門万里小路殿址 : 富小路通夷川上る西側に「大炊御門万里小路殿址(おおいの みかど までのこうじどのあと)」の石標が立っています。
ここは、平安時代後期、但馬守・源高房(?-1077)の邸宅「大炊御門万里小路殿」は、平安京左京二条四坊十一町にあり、この石標の位置は敷地の南東よりにあたります。源高房の後は、中納言・源能俊(1071-1137)が引き継いでいます。鎌倉時代末期、里内裏として度々利用されています。
第71代・後三条天皇は、この地に行幸して、亡くなっておりますが、この天皇は、荘園整理令を出し、摂関家に打撃を与えたことで有名です。
④赤松小三郎 : 下京区東洞院通鍵屋町下る西側にこの石碑が立っています。
赤松小三郎(1831~67)は信州上田藩の藩士です。江戸で蘭学や西洋砲術を学び、勝海舟(1823~99)とともに長崎の海軍伝習所に赴任しています。その後、京都で私塾「宇宙堂」を開いています。薩摩藩から招請を受けたましたが、公武合体論を唱えたため、慶応3(1867)年9月3日、帰宅の途中、薩摩藩士に暗殺されたといいます。
この石標は,赤松小三郎が暗殺された地を示すものです。
⑤松永貞徳花咲邸址と花咲稲荷社 : 下京区間之町通松原上る」の狭い路地に立っています。
横には花咲稲荷社があり、俳諧の祖、松永貞徳ゆかりの神社です。
この地には、江戸時代の初め、俳諧の祖とされる松永貞徳が60代で移り住んだと伝わり、神社の前には「松永貞徳花咲亭址」の石碑も立っています。その邸宅の鎮守として創建されたのが、花咲稲荷社です。
松永貞徳は京都出身の人物で、和歌を細川幽斎に、連歌を里村紹巴に学び、若き日は豊臣秀吉に仕え、晩年は俳諧の指導者となり、その俳諧を貞門俳諧と称します。友人先輩としては藤原惺窩(せいか)、林羅山(らざん)、木下長嘯子(ちょうしょうし)らがいました。
それまで連歌の一部とされていた「俳諧」が、独立した一分野として確立したのは貞徳の頃で、俳諧には、元々滑稽や戯れという意味がありますが、貞徳は和歌や連歌の表現の中でも滑稽さを重視して、さらには連歌ではあまり使われなかった日常の言葉や漢語(俳言:はいごん)を用い、堅苦しくなく、より気軽で親しみやすい「俳諧」を作り出しました。
貞徳の弟子には、北村季吟がおり、さらにその弟子には松尾芭蕉が出てきます。俳諧から俳句へ、さらには川柳や狂歌など、天下太平の江戸時代には歌一つとっても、様々に洗練・派生していきました。何気ない町中にも、こうして歴史や文化をしのべる場所があるのは、歴史が詰まった京都らしくて面白いですね。なお、松永貞徳は、「*雪月花三名園」の作庭者としても知られています。
「*雪月花三名園」:江戸時代に歌人・連歌師・俳諧の祖として讃えられた松永貞徳(1571〜1653)により作庭されたと伝わる「雪月花の三庭苑」は、江戸時代、寺町二条の妙満寺(現在は左京区岩倉)の「雪の庭」、清水寺の「月の庭」、そして北野天満宮の「花の庭」それぞれが成就院(成就坊)という塔頭に造られた庭として、その名を馳せました。
⑥手島堵庵(石門心学:五楽舎)
富小路通六角上ル西側に、「手島堵庵五楽舎址(てじま-とあん-ごらくしゃあと)」の石標が立てられています。
手島堵庵とは、江戸時代中期の「*石門心学」者であり、この地の講舎「五楽舎(ごらくしゃ)」で門弟の育成を行った。
江戸時代中期の石門心学者・手島堵庵(てしま/てじま-とあん、1718-1786)は、京都に生まれ、18歳で石門心学の祖・石田梅岩の門に入る。20歳で後継者になり、「心学二世」と呼ばれる。
「*石門心学」とは、創始者・石田梅岩(うめだ-ばいがん、1685-1744)に始まるといいます。陽明学を心学ということから、梅岩門流の「石門」を入れ、「石門心学」と呼ばれた。
神道・儒教・仏教に基づく道徳を基本にしており、人の道義を説いたものです。江戸時代後期に大流行し、全国に広まったといいます。
心学講舎は、社中と呼ばれ、都講(教師)が町民に教化したといい、講話は定例的に行われていました。江戸時代、1850年の大飢饉では救援活動を行っています。
この項 <完>