鳥羽天皇陵「安楽壽院陵」20240315
(鳥羽天皇陵-安楽寿院陵(あんらくじゅいんりょう))
鳥羽天皇は白河天皇の孫にあたり(父は堀河天皇)、引き続いて院政を行ない東殿・田中殿を造営しました。白河天皇がすでに御所としての機能を持つ南殿や北殿を整えていたためか、鳥羽天皇は主に御堂の造営に力を注いだようです。東殿には安楽寿院を造り、白河天皇にならい三重塔(本御塔)を建立して、みずからの墓所としました。保元元年(1156)7月2日に 54 歳で安楽寿院にて崩御しました。遺言により火葬には付されず、その日の夜に三重塔内に葬られました。現在の建
物は江戸時代末に、建てられた法華堂です。
●鳥羽天皇とは
鳥羽天皇(1103-1156)は、平安時代後期の天皇です。
父「堀川天皇」の第一皇子として生まれ、生後7か月で白河上皇により立太子とさせられ、父堀川天皇の病死を受けて嘉承2年(1107)5歳で即位しました。専制的な院政を行っていた祖父白河上皇により、保安4年(1123」)皇太子顕仁(あきひと)親王(のちの崇徳天皇)に譲位させられています。
大治4年(1129)白河上皇の死後、崇徳、近衛、後白河の三代の天皇在位28年間にわたって院政を行っています。特に崇徳上皇は、白河上皇の寵妃だった藤原璋子(待賢門院)を下げ渡され、生まれた子でしたが、自分が作った子ではないと思っていたようで、白河上皇の崩御後、直ちに近衛天皇に譲位させていたようです。
さて、鳥羽上皇が開基の「安楽寿院」は、保延3年(1137)鳥羽離宮の東殿を寺に改めたことに始まります。鳥羽上皇の念持仏である卍阿弥陀(まんじあみだ)仏を本尊とし、覚法法親王を導師として落慶したとあります。
保延5年(1139)鳥羽上皇が自らの葬堂とするため本御塔(ほんみとう)と呼ばれる三重塔が建立し、保元元年(1156)7月2日に鳥羽法皇(上皇)が安楽寿院御所で崩御すると、遺言により火葬には付されず本御塔の塔内に葬られました。
現在の安楽寿院に伝えられる阿弥陀如来像がその塔の本尊であったと推定されています。
鳥羽天皇安楽寿院陵の現在の建物は、江戸時代に建立された法華堂であったようです。
当地の南には、「白河法皇鳥羽法皇院政之地」と書かれた石碑があります。下記ご参照!
この項 <完>